金剛能楽堂 能への誘い
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能への誘い 123456

観阿弥・世阿弥の登場
能が大成される直前には、「猿楽の能」と「田楽の能」と呼ばれる2つの芝居がありました。猿楽の能が、いかにその役柄に化けるか、似せるかという物真似を主軸とする芸だったのに対し、田楽の能は幽玄(ゆうげん)を目標にしており、そのものずばりを演じるのではなく象徴的な形で演じ、また高度な芸を持っていました。
田楽の能は貴族社会で大変愛好され、京都で大流行しますが、猿楽の能は流行しませんでした。奈良で演じていた大和猿楽(やまとさるがく)をはじめ、滋賀には近江猿楽、京都の北部には丹波猿楽、大阪には摂津猿楽、伊勢には伊勢猿楽、都から離れますが越前の越前猿楽など、猿楽の盛んな地域はたくさんあったのですが、都である京都は田楽の中心地でした。
ですから、猿楽の能の目標は、都に上がって田楽の能に取って代わることでした。その頃、諸国の猿楽座の中でも大和猿楽と近江猿楽が際立つ存在でしたが、春日興福寺に勤仕する大和猿楽は結崎(ゆいざき)・円満井(えんまい)・外山(とやま)・坂戸(さかと)の四座が中心でした。この四座が後に観世(かんぜ)座(観世流)・金春(こんぱる)座(金春流)・宝生(ほうしょう)座(宝生流)・金剛(こんごう)座(金剛流)となります。
その結崎座から観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)の父子が出てまいります。この二人が、田楽の能の特徴である「幽玄」を猿楽の能に取り入れて芸を高め、京都で公演をしました。それを観た足利義満がおもしろいと評価して庇護して以降、猿楽の能が都の芸になっていきます。

船弁慶
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